「ん……っ、んん」
薄暗い室内に、押し殺した声が漏れる。
見ているこちらにもわかるほど唇を強く噛みしめているのに、それでも抑えきれない声は苦しそうで、泣いているようで、けれどひどく甘く響く。そのことがとても理不尽に感じられて、わけのわからない焦燥感に襲われる。
何が理不尽なのか、何に焦らなければならないのか。そう問われても答えることなどできない。高尾とこうしているときの自分は熱に浮かされてしまっていて、まともな思考をもたない。どれだけ冷静であろうと努めていても。
「……っ」
左の手のひらで包み込んだそれに右手を添えると、高尾が大きく息を吸い込んだ。いつも憎たらしいくらい余裕たっぷりに笑う瞳が、涙をたたえてオレを見ている。
赤く染まった頬に今にもこぼれ落ちそうなしずくを唇で拭うと、オレよりも小柄な体がぴくんと跳ねた。たったそれだけの動作に、息が詰まりそうなほどの興奮を覚える。そう、オレは興奮している。いつもの自分の部屋で、いつもよりすこしだけ制服を乱した高尾に、どうしようもなく。
性的なことについては淡白なほうだと思っていた。性的な衝動を覚えたことがないわけではないし、自慰の経験だって人並みにある。それでも、性器に刺激を与えて精液を吐き出すという行為について、体の調子を整えるために必要だという認識しかもてずにいた。青峰や黄瀬が悪趣味な冗談交じりに卑猥な雑誌やDVDを見せてきても、さしたる興味はもてなかったのだ。
それが、今はどうだ。高尾がわずかにまつげを震わせるだけで、キスで濡れた唇をもの言いたげに開くだけで、オレの脳は熱く揺さぶられ、視界はちかりと点滅する。まるで説明がつかない、形容することすら困難な感情が胸の奥底からわきあがってきてしまって、比喩ではなく本当に息が詰まりそうだ。
名づけられない衝動をやりすごそうとして、思わず手に力を込める。するととたんに高尾が喉をそらすから、オレの試みはただの悪足掻きに終わる。
「ん、ぁ、真ちゃ……」
その声音はあまりにも熱い。その熱を受けて、オレの内に潜む何かが、ゆっくりとまたひとつ溶けていくのを感じた。
高尾に恋をしていると自覚したのは、そう最近のことではない。チームメイトとして――相棒として、なぜかいつも自分の傍らにいるこの男に、単なる好意以上のものを抱くのはひどくたやすかった。
言動こそ軽薄だが、高尾が内に秘めるバスケへの真摯な思いと重ねてきた努力には目をみはるものがあったし、あいつのまとう雰囲気やさりげない気づかいには不本意ながら幾度も助けられてきた。
完璧なシュートを完璧に決めるために尽くすと決めた人事の数々を笑い、変だ偏屈だとからかいながらも距離を縮めようとしてくる者など、ほかにいなかった。中学時代のオレに敗北し、それでも折れることなく立ち上がり、悪意ではなく敵意を、敬意を、信頼を向けてくるような変わり者など、高尾しかいなかった。恋をする理由など、それだけで十分だった。オレにはこいつしかいない。そう確信するほどの思いが芽生えたのは、自分でもあっけにとられてしまうほどに早かった。
だが、それを伝えるつもりはなかった。オレが抱いている思いが一般的でないことは理解していたし、関係を不用意に変えてしまうことがおそろしくもあった。思いを伝えることでオレたちのバスケにどう影響が及ぶのか、まったく予想ができなかった。恋などという、なじみがないものに振り回され、バスケをおろそかにすることなどあってはならない。いくら高尾への思いがオレに幸福感をもたらそうとも、今以上の関係を望んで心臓が痛もうとも、それだけは許容することができなかった。
いつか、バスケにすべての人事を尽くしきったと思えるときがきたら。
そのときこそオレは人事を尽くし、高尾に恋心を伝えよう。
ずっと、そう思ってきた。あのとき高尾が告白してくるまでは。
「好きなんだ、真ちゃんが」
泣きそうに眉を下げ、思いつめた瞳と震えた声でそう告げられて舞い上がらずにいられるほど、オレは大人ではなかった。バスケのことも、信念も、尽くすべき人事も、これまでさんざん考えて出した結論も何もかもすべて思考から吹き飛び、気づけば高尾を抱きしめていた。オレもだ、と応えたときに高尾が抱きしめ返してきた腕の力を今でもまだ覚えている。
高尾の気持ちを知った以上、思いを封印しておくことはできなかった。
となれば、とるべき道はひとつ。オレが出した結論は、バスケにも高尾にも人事を尽くすことだった。
どちらもかけがえがないもので、もはやオレの中でそのふたつを比べることなど不可能だ。ならばどちらも大切にすればいいだけのこと。実に簡単な話だった。
今後の方針を定めたオレは、高尾と恋人としての関係を築くにあたっての知識を得ようとパソコンに向かい――ひとつの現実を知った。
そして次の日オレは高尾に告げたのだ。
バスケ部を引退するまでセックスはしない、と。
「っ、ン、っは……ん」
左手で高尾の勃ちあがったものを扱き、右手でその下のやわらかなふくらみにふれる。食いしばった口元から漏れ出る声が大きくなったことを確認し、手の動きを激しくする。ぬるりという感触に手元を見ると、中心がじわりと濡れはじめていた。
セックスはしないというオレの宣言に高尾はひとしきり笑い、そのあとで理由を尋ねてきた。いちいち訊くなと返事をしたものの、見上げてくる瞳が思いのほか不安そうな色をしていたから、しかたなく説明してやった。男同士のセックスに伴う、身体的な負担について。そしてそれがバスケに及ぼすであろう悪影響について。
プロのアスリートは、試合が近くなると調子を狂わせないために性行為を控えることもあるという。異性間ですらそうなのだから、それ以上に負担がかかるオレたちは推して知るべしなのだよ。そう言ったオレに、高尾は確かにうなずいた。
そうしてオレたちは、密かに恋人として交際をはじめ、愛を育んだ。
はじめてキスをした日、どれだけオレの心臓が激しく脈打っていたか、高尾は知るまい。キスしちゃったなと照れくさそうに笑う顔を見てわきあがった思いは、今までに感じたことがないほどまばゆく甘美だった。これが幸福というものだなどと、柄にもなく考えたものだ。
オレたちの交際は順調だった。しばらくのあいだ、約束は守られてきた。だが、やがて高尾は約束に不満を訴えるようになった。
「……キス以上のことしてーんだけど」
そう言ってうつむいた高尾に、オレは体の負担がどうとか言ったように思う。
思う、というのは不覚にもその言葉に動揺してしまい、何を言ったかあまり覚えていないからだ。
オレとて何も感じていないわけではない。唇を重ねるたび、高尾のあたたかい手にふれるたび、奥底で眠らせている情動が頭をもたげるのを自覚していた。
もっとふれたい、もっと高尾を感じ取りたい。それを抑えるのにどれだけの忍耐を必要としているか教えてやるつもりは毛頭ないが、高尾とつきあうようになってから自慰の回数が増えた。理由など、ひとつしかない。
ダメだ。なんとかその言葉を絞り出すと、高尾ははじかれたように顔を上げた。切れ長の瞳には不安と抑えきれない欲望がゆらめいていて、妖しい魅力を醸し出していた。
「オレが下でいいから」
高尾はオレに劣らず――もしかしたらそれ以上に、負けん気とプライドが高い。その男が、そうまで言ってオレを求めている。ぐらり、と決意が揺れる音が聞こえた気がした。己の意志を貫かずに目の前の欲に流される行動など、浅はか極まりないと軽蔑していたが、このときはじめてオレは状況に流されることを選びたくなった。
高尾の部屋で、ふたりきり。邪魔は入らない。このまま高尾を組み敷いてしまえば、ずっと押し込めていた欲望を思う様解放することができる。高尾もそれを望んでいる。その誘惑は、いっそ残酷といっていいほどうっとりと甘いよろこびを全身に流し込んだ。めまいすら覚えるほどの激しい誘惑をおぼえたのも、このときがはじめてだった。
何も考えられないまま指を伸ばしかけた瞬間、ふと脳裏によぎったのは試合中の高尾の姿だった。
スピードとテクニックで敵を翻弄し、鷹の目を駆使したパスで仲間を活かす。好戦的な笑みと共にくるくると柔軟に変化してみせる、あざやかなプレイ。コートでその存在を感じながら戦えることは、オレにとってよろこびと言ってもよかった。
あれを損なうのか。ほかでもない、このオレが。
そう思ってしまってはダメだった。どれだけ愛しているという理由を掲げても、高尾の体を傷つけることなどできない。
ならばオレが高尾を受け入れる側に回ればいいのだろうか。しかし、情けない話だが、それもオレには受け入れがたいことだった。もしシュートに支障をきたしたら、と思うと、どうしてもためらいが生じてしまう。半端な気持ちで高尾と抱きあうことはしたくなかった。
お前とのバスケに傷をつけることはできない。オレは恋人としてのお前も、選手としてのお前も失いたくないのだよ。
わがままだと、臆病だと罵られてもしかたがない本心を伝えると、意外なことに高尾はしょうがねぇなあと笑った。そして。
「じゃあ、抜きっこしねえ?」
そう提案してきたのだった。
くちゅりと濡れた音が室内に響く。
溢れてくる透明な液体を指ですくい、先端にこすりつけてやると高尾が目を細めた。これが好きなことはもうずいぶん前から知っている。
気持ちいいのか。もっと、してほしいか。そう問いかけてやったら高尾はどんな反応をするのだろう。赤く染まった顔をもっと赤くして恥ずかしがるだろうか。それとも、もっと、とちいさく懇願する声が聴けるだろうか。
だが、それはできない。
今にも唇からこぼれて空気をふるわせてしまいそうな問いを飲み込み、代わりに先端を強く押さえる。高尾が快感に耐えるように目を瞑った。手の甲を口に押し当て、必死に声を抑え込もうとしている。
抜きっこと高尾は言ったが、実際はオレの一方的な行為になってしまうことが多い。最初は互いのものをさわりあっているのだが、そのうち高尾は手を放してしまうのだ。
オレから与えられる快感でいっぱいになり、全身をくたりと脱力させた高尾は、普段の様子からは想像もつかないような顔を晒す。頬を紅潮させ、目を潤ませ、信じられないほどに甘い声でオレを呼ぶのだ。真ちゃん、と。
はじめて高尾のその声を聞いたとき、オレはこのうえなく動揺した。いつもより高くかすれた、泣いているような声。脳を、心臓を、体全体を熱く貫いて揺さぶるような衝動が、欲情によるものだと気づくのさえ時間がかかった。思わず握りしめた手のひらに食い込んだ爪の跡は、しばらく消えなかった。
周囲に聞かれてしまうからともっともらしい嘘をつき、オレは高尾に声を出すことを禁じた。今、高尾が手の甲に歯を立てて必死に声をこらえているのはそのせいだ。
そのほかにもいくつかのことを決めさせた。喘ぐことはもちろん、しゃべらないこと。必要以上に服を脱がないこと。手以外のものは使わないこと。一度達したら終わりにすること。
高尾はすべてにうなずいてみせた。そのけなげさについて深く考えることを放棄し、オレは両手で高尾の性器を弄ぶ。何も考えるな。ただこうやって、高尾を気持ちよくさせることだけ考えていればいい。高尾が達するまで手を動かしつづけていればいいのだ。
「ん、ッ、真ちゃ、ん」
「……高尾」
ぬちゅ、といやらしい音を立てて先端が震える。限界が近くなってきたらしいと見当をつけて、高尾に声をかけた。
「下を脱げ。汚れる」
「ん」
高尾がわずかに腰を持ち上げたので、スラックスと下着をつかんで引き下げる。下は裸で上は学ランとTシャツを着たままというなんとも不格好な状態だが、それもオレが決めたことだ。
真っ赤になって汗をかいている高尾は暑そうだな、とすこし可哀想に思うが、急いで目を瞑り、浮かんだ考えを打ち消す。「抜きっこ」をするのに上半身を裸にする必要はない。
「真ちゃん」
目を開くと、もの言いたげな高尾の顔が目の前にあった。キスをねだる顔だ。
吸い寄せられるように唇を奪う。やわらかくてあたたかい。軽く食むようについばむと、かすかな吐息と共に唇が開いた。
舌を滑り込ませ、口腔を蹂躙すると高尾が苦しげに呻く。離してやるべきだ、と頭のどこかで思うものの、舌は勝手に高尾の舌を追いかけて捕まえる。ざらりとした感触を味わってから吸い上げると、応えるように高尾の舌も動いた。ぞわりと背筋がふるえ、下半身に熱が集まるのを感じて慌てて体を離す。
唇を淫蕩に濡らした高尾がこちらを見ている。もっと、と乞われてしまう前に右腕で抱き寄せ、左手で性器を扱きあげる。ひう、と喉を鳴らして高尾が顔をのけぞらせた。
汗がにじむ首筋に噛みつきたいのをこらえ、何度も唇を重ねる。息をつく暇がないほど口づけているせいで唾液がこぼれ、顎に伝っていく。甘いものなど口にしていなかったはずなのに、高尾の唾液はひどく甘い。そう感じてしまう自分は、もうじゅうぶんおかしくなっているのだろう。
――キスをしているだけでこんな有様なのだ。それ以上のことが、どうしてできるだろう。
「う、んう、ぁ、ぁぁ、ふぁ、あ」
腕の中に収まっている高尾が声をあげる。眉根を寄せて、目を細めて、耳まで赤くして悦んでいる。ダメだ。そんな声を、出すな。
「し、真ちゃん、っあ、ん、むむ」
「……声を出すなと、言ったろう」
右手で高尾の口をふさいでそうささやくと、手のひらの中で唇を引き結ぶ気配がした。目じりに涙をためた苦しそうな顔を見れば、オレの視界がまたちかりとぶれる。
ああ、オレはこういうことで興奮する性癖なのか。知らなかった事実をどこか他人事のような気持ちで受け止め、高尾に体の向きを変えさせる。恥ずかしいくらい勃ちあがっている自分のものと、高尾のものを一緒に左手で包み込んだ。性器がぶつかる感触さえ甘く全身に響き、思わず呻いてしまう。
「ん、む、んんん……む、む」
「っ……たかお…」
快楽にかすれる声で名前を呼ぶと、高尾の瞳がゆらりと揺れた。欲情してとろけきったグレイの瞳がオレを呼んでいる。
あまりの愉悦に思わず高尾の口から手を放し、両手を使ってふたつの性器を扱く。高尾がひときわ高い声で、とぎれとぎれの喘ぎを部屋に散らす。そこにひとつ、ぽろりと意味のある言葉がこぼれて落ちた。
「しんちゃん」
たったそれだけの言葉で、高尾は雄弁に語る。この先を知りたいだろと、もっとしたいんだろとオレにささやきかけてくる。
だからオレは高尾に声を出させない。高くて甘く、欲をたっぷりとにじませた声には、オレのくたびれきった理性を焼き切るだけの威力があると知っているから。
「……呼ぶな」
食いしばった歯の奥から声を絞り出すと、高尾が快感に顔をゆがませながら笑った。
高尾はすべて知っている。オレがどうしていくつもの決まり事を作ったのか、オレがどれだけ忍耐を重ねているか。知っていて、オレを誘う。たった五文字の言葉で。短い声で。
服を脱がさないのは、首や鎖骨や胸元にふれたいからだ。手以外のものを使わないと決めたのは、高尾の性器を口に含んでかわいがってやって、そして高尾にオレのものを咥えさせたいから。一度達したら終わりにするのは、この信じられないくらいの快楽に溺れてしまいたいから。
本当は、高尾を裸にしたい。あらゆるところを手でふれて確かめ、足の指先まで舐めつくして、胸の突起をひっかいてやったら、どんな表情をするのか知りたい。まっすぐで綺麗な背中に舌を這わせ、背骨の感触を楽しんだら、気持ちいいと泣くのかどうか確かめたい。
そのしなやかな体にオレを埋め込んでひとつに繋がれたら、どんな心地がする。オレに貫かれて体内を蹂躙されたら、高尾、お前はどんな気分になる。
知りたい。すべてを暴いて、オレのものにしたい。
しかしそれはしてはならないこと。まだ、オレはバスケに人事を尽くし切っていない。
まだ、この欲望を叶えるわけにはいかない。
高尾の呼吸がどんどん荒くなっていく。絶頂が近いことを知らせるようにオレの腕をぎゅっとつかむと、ぞわりと大きくふるえて一瞬だけ硬直する。
「あ――あッ、いく、ん、いく、あ、あぁぁ!」
白いものがほとばしり、オレの性器に、高尾の腹に飛び散る。
この瞬間の高尾の顔は、いつもおそろしいほど艶めいている。その表情を見つめながらオレは自身を扱く手の動きを速め、達した。
「ん、……っ、は…っく、あ」
部屋に、荒い息遣いだけが満ちる。汚れた指で額に張りついた髪をそっとよけてやると、高尾が顔をあげた。
「真ちゃん」
瞳に、声に、宿っているのは先ほどまでと変わらない――いや、それ以上の欲望で。
一度きりだ。そういう約束だ。そういった言葉を発しようと口を開く前に、高尾が顔を寄せてくる。軽くふれただけなのにやけに淫靡なキスをし、オレの耳に唇をつけてささやいた。
「真ちゃん」
くらりとめまいがして視界が揺れ、ふらついたオレの頭を高尾の腕が支える。くすり、と笑みをふくんだ吐息が耳をくすぐった。
もう一度しよう。もっとしよう。今度はもっと、もっと奥まで。
そう言って笑う高尾の声が聞こえた気が、した。
2015.3.8
緑高で初めて書いたえろでした。評価していただけてとてもうれしく、思い出深い作品です。